昨今、「まちづくり」なる単語が都市計画の場面で跋扈していると思います。
その目指す方向性を見てみると、「コミュニティの創出」「にぎわいの創出」といった単語が目につきますが、その必要性があまり理解できないという話です。
コミュニティは必要?
筆頭は、まちづくりにおける「コミュニティの創出」です。 ストレートに言えば、それは都市に求められる機能なのでしょうか。
私が異端派で、これらのことを大多数の人は望んでいる。 だから、結果としてこのような案となったのだ。そうなのであれば、理解したくはありませんが、まあ納得はします。
しかしながら、そんなに人はコミュニティを望むのでしょうか? 地域社会の厄介なところとしていの一番に挙げられるのは、その人間関係の濃密さでしょう(そのメリットも当然あることはわかる。しかしながらデメリットもまた大きいという話)。 もちろん都市にもコミュニティというものはありますが、しかし、集落に移住する人と比べ、集落から都市に出てくる人はどちらかというとそれをやっかむ傾向があるのではないでしょうか。
反論として、人は誰しも孤独には生きることはできない、というのが考えられるかもしれません。
だとしても、必要とされるコミュニティは、ではどれくらい濃密なのか。 少なくとも都市たるものに住んでいる限り、隣人同士で助け合わなければ致命的な自体というのは、大災害のときくらいではないでしょうか。
コミュニティのある生活のほうが幸せだよ、と言われればそうかも知れませんが、別にない生活もそれはそれで特に文句のないものです*1。 もしかして、全ての公共サービスを行政が提供することは難しいから、共生という名のもとに自分たちで相互に助け合ってやってくださいねという、行政の手抜きみたいなものがないでしょうか。
ちなみに、私は今の場所に引っ越して年単位の時間が経ちましたが、地域の人と話したことはほぼありません。 しかしながら、それを別に苦に感じたこともありません。なぜならば用がないからです。
そもそも生活に必要なサービス、あるいは物品を提供する場所に行けさえすればよいですし、娯楽は別に一人でもいくらでも見つけられますから、私の生活に地域住民が介在する必要性を全く感じませんし、実際に必要としたことがありません*2。
逆に、そこに「知らない人」が侵入してくると、その対応にかかる時間的、精神的コストが私を蝕んでいきます。
ですから、都市がコンパクトになるからといって、付随的にコミュニティ、コミュニティと言われても、ついでに余計なものを押し付けられているようにどうしても感じられます。 集落―都市という二元論に現実は必ずしも還元できないと思いますが、ある程度の傾向があるのだとすれば、都市にコミュニティを持ち込むのは、都市の集落化なのではと思えてきます。
確か、ジョン・アーリの「観光のまなざし」という本か何かで、都市民は匿名で居られる、といった事が書いてあったように思います。 これが都市のメリットだと私は信じてなりません。 このメリットを捨てて、都市に人間関係を築きあげていく。 それは都市が都市であることを捨てに行っているのではないか?という風に私は思えてなりません。
「にぎわい」は必要?
次に気に食わないのが「にぎわいの創出」です。
極論、これは「そこを何度も歩かされるのか?」という気になってきます。
どうも都市計画に携わる人たちは、暇さえあれば我々は街に出て、商業施設のあたりをぶらつき、あわよくばカフェのテラスで長話する生き物だと思っているのかもしれません。
しかしながら、私からすれば、必要なお店に直行して、物を買い、帰るだけのところに、余計なものがゴテゴテくっついて来ているように思えてなりません。 土日であれば家で過ごしたい。あるいはアウトドアに行きたい。そういう選択肢がいくらでもあります。
そのような中で、にぎわいを要求されても困ってしまいます。なぜ私が賑わいに加勢しなければならないのか?そんな気になってきます。
ただ、ここには論理の誤謬があって、別ににぎわいに全ての人間が協力することは、必ずしも前提とされていません。 だから、私はにぎわいに協力しなくていいんですよ、ということだとは一応頭の片隅で理解してはいます。
ただ、そうすると一体誰がわざわざフラフラするのでしょうか。 確かに、若者や女性などは比較的そのような場所を求める傾向が強いのかもしれません。 そして、彼/彼女らにとって、今の都市というのは、そのようなスペースがないのかもしれません。 であれば、整備するという話には頷くことができます。
まあ、そもそも散歩なのであれば別に商業施設である必要がありません。 ただの住宅街、郊外のあぜ道、そういったところにもまた魅力があり、別に都市だけが特別視される謂れはないでしょう。
だからといって都市に整備しなくていいという話にもなりませんが、どうもそこには、入っているテナントの売上と、その前の人通りの数は相関し、売上を向上させたいから回遊性を増したいという資本の論理があるのではないかという気がします。
しかし、そうなのであれば、にぎわいの創出という副次的な支援をするまえに、店の側をどうにかしろよという気になってきます。 郊外型大規模小売店舗に比べて、「にぎわいの創出」とペアで出てくるような店舗はどれだけ魅力的でしょうか。
なぜ昭和の時代に個人商店からスーパーに人が移っていったのでしょうか。 それは個人商店と比べ品揃えが良かったり、対面の値段交渉が煩わしいと思われたからではないでしょうか。 そのような個人の選好を反映した市場原理による経済構造の移り変わりに逆行するのは、住民にとっては不利益な面が多くはないでしょうか。
それが地域的な経済の安全保障につながる(郊外型大規模小売店舗は、すぐ撤退したりする。利益は本社に流出し、地域の経済の循環にあまり寄与しない、等)と言われれば、そうかもしれませんが。
衰退に抗うべきなのか?(持続性って?)
他にも、都市は残り続ける。そのような発想を取っているように思えますが、それはなぜなのでしょうか。 個人的には、今の人口減少を踏まえると、最終的には清算する方がありそうな現実ではないだろうかと思えてきます。
もちろん、議事録とかにはあるのかもしれません。 それに、コンパクトシティというのは、都市の一部をしまう、という点ではこれに通づるものかもしれません。
他方で、それは都市にとっての自殺行為と言えるので、議論するなど馬鹿らしい。 だとか、自治体がそれを主張してどうするのか(なぜならば将来はそこに残る人のための自治体になるのから)というのはあるでしょう。
Too big to たたむ。そう思われているのかもしれません。
しかしながら、都市の人口規模は大抵の場合減っていくことでしょう。
どの自治体も、日本全体の人口が減少していく限り、人口規模を維持しようと思ったら住民の取り合いになります。 この人口減少の傾向が変わらぬ限りは、持続可能と言いつつも、人口自体は減っていく基調のままでしょう。
いくら「子育てガー」とか言った処で、出生率を2.0まで持ってくることは相当の難事業のはずです。 そのような中では、維持可能という目標ですらかなりの高望みであり、現実的なラインは減少を少しでも緩和するというところでしょう。
そうなると、徐々にではありますが、将来は市が町の規模になり、町が村の規模になり、村は集落の規模になる。 これをふまえれば、昭和の時代に多く見られた集団移転のように、都市を最終的には清算する。 その発想はそこまで非現実的ではないようにも思えてきます。
すると、「たたむ」方向に進めるのか、あるいは「維持する」方向に進めるのか。 これらは、都市に残された時間で、都市の住民がより満足できるのはどちらなのか。そういう話になってくると思います。
コンパクトシティというのは、この間でバランスをとった発想なのかもしれません。 具体的には、「たたむ」ところと「残す」ところを線引する。 これは、固定費と変動費のようなもので、固定費に相当する必須のコア機能は中心部に集めて「残す」。 それ以外の、人口の増減にともない変動する住居ゾーンは周辺に配置し、減少するならば「たたむ」。
そのようにして、最終的には消えてなくなるとしても、最後まで都市が都市であろうとする、その機能を住民に提供しようとする、サバイバルとしての策なのでしょう。 「都市の持続性」を、永続する前提ではなく、可能な限りで延命する前提を意味しているとして読む、そういうことなのでしょう。