ブログが見づらいので、横幅を拡げるようカスタムcssを設定した。
流石に横幅620は2000年代すぎる。なぜ今だにこんなVGAのような幅なのだろうか。大抵のPCのモニタ解像度はHD(1920 x 1080)、少しヘボくても横幅1333くらいはありそうなものなのだが。
--
焼きそばを作るための具材を書いに、スーパーに赴いたら、キャベツが1玉350円であった。OKですらこれなのか。
ところで巷の焼きそばのレシピは、1玉(1食相当)あたり豚バラ肉40gだそうである。屋台飯かな?
家庭であれば、焼きそばが主食・主菜・副菜の全てを兼ねることになるので、もう少し多くていいんじゃないかと思う。
ということで、レシピを無視して余った野菜やきのこを投入し、60g / 1玉くらいの豚の細切れ肉も入れた。私の判断に間違いはなかった、と思う。
--
最近、電子書籍では三面の本(ヤマケイ文庫「新編 越後三面山人記 マタギの自然観に習う」田口洋美)を読んでいる。
雪の山でこそ活躍する山人の話で、山奥の集落の暮らしというものを鮮明に描いている(この手の本は「忘れられた日本人」に始まり数多ある。むしろ今こそ山奥の集落が社会的にもつながりを失い、都市に従属するだけの末節となってしまっている…山に高度経済成長はなかった)。
これを読んでいると、無性に熊肉が食べたくなってくる。寒い冬に野菜とともに味噌鍋にしたくなる。ふるさと納税か何かで買ってしまおうか、とも思った。
熊肉というと、白川郷で食べたことがあり、あと小谷村でも道の駅近くで食べられることは知っている。あとは東京という地の利を活かしてジビエ料理屋であるが…財布的に敷居が高い。
ネットで見てみると、流石に我らが肉のハナマサでも売っていないらしい。ネット通販ならば、ある程度は売っているが流通量は少なそうである。買えなくはない。
匂い抜き(下処理)は大変そうだが、しかしされど鍋、たかが鍋、素朴な煮込みなのだとすれば、ジビエ料理屋に大金を払って食べるのもなんだか癪である。
どうも肉によって脂の乗り方がかなり違うようで、断面の半分が脂身のものもあれば、ほぼ刺しのない赤身よりのものもあるようだ。そういうのはジンギスカンという選択肢もあるらしい。
迷うなあ…でも食べたいなあ…。
--
それに熊肉だけでなく穴熊肉というのもあるらしい。なるほど…。穴熊といえばイタチの仲間だと思うけれど、どれも食べたことがない。
で、こう欲が出てくると収集がつかなくなってくる。
じゃあ(西洋の)ライチョウやキジなども食べたい。ライチョウ、山で結構見かけるけれど、あいつはいったいどういう味なのか。結構丸っこくて肉がついていそうな気もする。ハイマツ帯でそんな育つのかという気もするけど。でも羽のボリュームが多くて、最終的にはあまり残らなさそうだ。
何しろここだけは私は誠に日本人であって、食に対する欲というのはかなり強いと思う。もとより近世までは日本人はもっと色々な肉を食べていたのであり、その血を受け継いでいるのだから昔の人間の気持ちというものをもう少し味わってもよいのではないか。などと。
大学生が一度は行く珍獣屋に行かなかったのもちょっと勿体なかったか。
後はあれだなあ、うずら鍋。それから…すずめ。京都の伏見稲荷で売ってるやつ。
土屋ゼミ2014年度<第4回>消えゆく雀食文化 -なぜ、雀の焼き鳥は消えるのか- > https://sem-tjournal.w.waseda.jp/dai3kaisemkiji.kinoshita.html
--
しかし、公共の利益のために私利を犠牲にするというのは、衛宮切嗣的である。
彼のように法を超え自分自身だけの判断で物事は決められないので、現実においては多数があーだこーだいいながら紆余曲折を経たうえでなんとか1つの方向性を見出すのだけれども…。
なんて地道で、面白くない過程なのだろう。
--
今年は秋らしい期間が長く続いていて喜ばしい。「天高く馬肥ゆる秋」を噛みしめることが出来ている。
去年は6月あたりから10月まで酷暑がずっと続いていて、それはもう酷かった。
それに比べて今年は涼しい。記録的冷夏(といいつつ「一昔前の平年並」)、9月の関東に至っては降雨日が史上最長であってニュースにもなった。
そのあおりを受け葉物野菜が高くなった(のが冒頭のキャベツ高!につながる)そうだが、まあ過ごしやすさを思い出せば、可愛いものである。
とはいえ9月はほとんど休みに山に出かけられず、鬱憤がたまっていなかったと言えば嘘になる。自宅でもやることなど無数にあるけれど。
10月になってから、軒並み登山愛好家が解き放たれ各地に(特にアルプスに)出向いているように思えた。
--
私はヤマレコというアプリをやっていて、これはコンプリストとか総歩行距離に応じたステータスとかが表示されるので、一定程度、歩くことへのモチベーションに繋がっている。
そもそも運動というものが嫌いなので(当然だが、疲れるから。第二には、疲労することは楽しくないから)、ただランニングとか、球技とか、そういう疲れるだけで面白みのない(運動することそれ自体が目的となっている)ことは微塵もやりたくない。
しかし、私の身体というのはある程度動かさないとどんどん不健康になってしまうらしい。
その点、登山やトイレルなどは歩くこと自体は手段であって目的ではなくできるので、自分に向いていて、そのモチベーション維持に役立つヤマレコにはいい印象を持っている。
--
前置きが長くなったが、ヤマレコで赤バッジになった。これは総歩行距離が2,500km~4,999kmの人を表す。ユーザーのうち上位数%なので、相当歩いている方だと思う。
最近歩くのも心地良い季節になって、次はどこを歩いてみようか、もう山でなくても丘陵地帯でもなんでもよいのではないか(真鶴半島とか三浦半島とかに行きたい)、やや透明度を得た秋晴れ、少し長い散歩だと思えば…という気持ちになっている。
--
がしかし、最近忙しい。今週も秋を満喫する予定が、気がつけば夜に気絶し、翌朝10時とか11時になってしまっていた。(まずもって休みを取って縦走に行くつもりが、休みが取れず、日帰りですら行けなかった)
そのうえ、忙しさが実りのあるものであればよいのだが、どうにも徒労のようであって面白くない。
やっていることは社内の調整。果たして内部管理というのはここまで人を投入してやることなのか。
「頑張れば頑張るだけ素晴らしい」といった考えが強く、「限界費用」のような考え方が乏しいと思う。確かに高度であればあるだけよいのかもしれない。しかし別にやらなくてもなんとかなるかもしれない。果たして、追加の労働コスト投入に伴って、どれだけ収益が増えるのだろうか。
勘定の付替えのような、誤魔化しのような、既にあるものを「見栄えを工夫」して捏ねくり回す。その出てきたものがどれだけ収益に貢献するのか。
こんなことを後数十年もやるのかと思うと気が遠くなる。どうも私にはそれに付き合うだけの「覚悟」というものが持てない。
--
マルクス・アウレリウスは将軍職についていながら(だからこそ?)「自省録」を書いていた。
自省録、第2巻の七は次のように言う:
外から起ってくる事柄が君の気を散らすというのか。それなら自分に暇を作って、もっと何か善いことをおぼえ、あれこれととりとめもなくなるのをやめなさい。またもう一つの間違いもせぬように気をつけなくてはならない。すなわち活動しすぎて人生につかれてしまい、あらゆる衝動と思念とを向けるべき目的を持っていない人たちもまた愚か者なのである。
うぐう…
--
本を読むこと。
ひとつには「自由で好きに読めばいい」という意見、対極には、「読み方には良し悪しがある」という意見。




