あすたま・なーにゃ

Eguneroko bat, eguneroko bizitzako gertaera mundutarren kronika egiten duena.

26/10/18

ブログが見づらいので、横幅を拡げるようカスタムcssを設定した。

流石に横幅620は2000年代すぎる。なぜ今だにこんなVGAのような幅なのだろうか。大抵のPCのモニタ解像度はHD(1920 x 1080)、少しヘボくても横幅1333くらいはありそうなものなのだが。

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焼きそばを作るための具材を書いに、スーパーに赴いたら、キャベツが1玉350円であった。OKですらこれなのか。

ところで巷の焼きそばのレシピは、1玉(1食相当)あたり豚バラ肉40gだそうである。屋台飯かな?

家庭であれば、焼きそばが主食・主菜・副菜の全てを兼ねることになるので、もう少し多くていいんじゃないかと思う。

ということで、レシピを無視して余った野菜やきのこを投入し、60g / 1玉くらいの豚の細切れ肉も入れた。私の判断に間違いはなかった、と思う。

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最近、電子書籍では三面の本(ヤマケイ文庫「新編 越後三面山人記 マタギの自然観に習う」田口洋美)を読んでいる。

雪の山でこそ活躍する山人の話で、山奥の集落の暮らしというものを鮮明に描いている(この手の本は「忘れられた日本人」に始まり数多ある。むしろ今こそ山奥の集落が社会的にもつながりを失い、都市に従属するだけの末節となってしまっている…山に高度経済成長はなかった)。

これを読んでいると、無性に熊肉が食べたくなってくる。寒い冬に野菜とともに味噌鍋にしたくなる。ふるさと納税か何かで買ってしまおうか、とも思った。

熊肉というと、白川郷で食べたことがあり、あと小谷村でも道の駅近くで食べられることは知っている。あとは東京という地の利を活かしてジビエ料理屋であるが…財布的に敷居が高い。

ネットで見てみると、流石に我らが肉のハナマサでも売っていないらしい。ネット通販ならば、ある程度は売っているが流通量は少なそうである。買えなくはない。

匂い抜き(下処理)は大変そうだが、しかしされど鍋、たかが鍋、素朴な煮込みなのだとすれば、ジビエ料理屋に大金を払って食べるのもなんだか癪である。

どうも肉によって脂の乗り方がかなり違うようで、断面の半分が脂身のものもあれば、ほぼ刺しのない赤身よりのものもあるようだ。そういうのはジンギスカンという選択肢もあるらしい。

迷うなあ…でも食べたいなあ…。

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それに熊肉だけでなく穴熊肉というのもあるらしい。なるほど…。穴熊といえばイタチの仲間だと思うけれど、どれも食べたことがない。

で、こう欲が出てくると収集がつかなくなってくる。

じゃあ(西洋の)ライチョウやキジなども食べたい。ライチョウ、山で結構見かけるけれど、あいつはいったいどういう味なのか。結構丸っこくて肉がついていそうな気もする。ハイマツ帯でそんな育つのかという気もするけど。でも羽のボリュームが多くて、最終的にはあまり残らなさそうだ。

何しろここだけは私は誠に日本人であって、食に対する欲というのはかなり強いと思う。もとより近世までは日本人はもっと色々な肉を食べていたのであり、その血を受け継いでいるのだから昔の人間の気持ちというものをもう少し味わってもよいのではないか。などと。

大学生が一度は行く珍獣屋に行かなかったのもちょっと勿体なかったか。

後はあれだなあ、うずら鍋。それから…すずめ。京都の伏見稲荷で売ってるやつ。

土屋ゼミ2014年度<第4回>消えゆく雀食文化 -なぜ、雀の焼き鳥は消えるのか- > https://sem-tjournal.w.waseda.jp/dai3kaisemkiji.kinoshita.html

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しかし、公共の利益のために私利を犠牲にするというのは、衛宮切嗣的である。

彼のように法を超え自分自身だけの判断で物事は決められないので、現実においては多数があーだこーだいいながら紆余曲折を経たうえでなんとか1つの方向性を見出すのだけれども…。

なんて地道で、面白くない過程なのだろう。

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今年は秋らしい期間が長く続いていて喜ばしい。「天高く馬肥ゆる秋」を噛みしめることが出来ている。

去年は6月あたりから10月まで酷暑がずっと続いていて、それはもう酷かった。

それに比べて今年は涼しい。記録的冷夏(といいつつ「一昔前の平年並」)、9月の関東に至っては降雨日が史上最長であってニュースにもなった。

そのあおりを受け葉物野菜が高くなった(のが冒頭のキャベツ高!につながる)そうだが、まあ過ごしやすさを思い出せば、可愛いものである。

とはいえ9月はほとんど休みに山に出かけられず、鬱憤がたまっていなかったと言えば嘘になる。自宅でもやることなど無数にあるけれど。

10月になってから、軒並み登山愛好家が解き放たれ各地に(特にアルプスに)出向いているように思えた。

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私はヤマレコというアプリをやっていて、これはコンプリストとか総歩行距離に応じたステータスとかが表示されるので、一定程度、歩くことへのモチベーションに繋がっている。

そもそも運動というものが嫌いなので(当然だが、疲れるから。第二には、疲労することは楽しくないから)、ただランニングとか、球技とか、そういう疲れるだけで面白みのない(運動することそれ自体が目的となっている)ことは微塵もやりたくない。

しかし、私の身体というのはある程度動かさないとどんどん不健康になってしまうらしい。

その点、登山やトイレルなどは歩くこと自体は手段であって目的ではなくできるので、自分に向いていて、そのモチベーション維持に役立つヤマレコにはいい印象を持っている。

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前置きが長くなったが、ヤマレコで赤バッジになった。これは総歩行距離が2,500km~4,999kmの人を表す。ユーザーのうち上位数%なので、相当歩いている方だと思う。

最近歩くのも心地良い季節になって、次はどこを歩いてみようか、もう山でなくても丘陵地帯でもなんでもよいのではないか(真鶴半島とか三浦半島とかに行きたい)、やや透明度を得た秋晴れ、少し長い散歩だと思えば…という気持ちになっている。

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がしかし、最近忙しい。今週も秋を満喫する予定が、気がつけば夜に気絶し、翌朝10時とか11時になってしまっていた。(まずもって休みを取って縦走に行くつもりが、休みが取れず、日帰りですら行けなかった)

そのうえ、忙しさが実りのあるものであればよいのだが、どうにも徒労のようであって面白くない。

やっていることは社内の調整。果たして内部管理というのはここまで人を投入してやることなのか。

「頑張れば頑張るだけ素晴らしい」といった考えが強く、「限界費用」のような考え方が乏しいと思う。確かに高度であればあるだけよいのかもしれない。しかし別にやらなくてもなんとかなるかもしれない。果たして、追加の労働コスト投入に伴って、どれだけ収益が増えるのだろうか。

勘定の付替えのような、誤魔化しのような、既にあるものを「見栄えを工夫」して捏ねくり回す。その出てきたものがどれだけ収益に貢献するのか。

こんなことを後数十年もやるのかと思うと気が遠くなる。どうも私にはそれに付き合うだけの「覚悟」というものが持てない。

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マルクス・アウレリウスは将軍職についていながら(だからこそ?)「自省録」を書いていた。

自省録、第2巻の七は次のように言う:

外から起ってくる事柄が君の気を散らすというのか。それなら自分に暇を作って、もっと何か善いことをおぼえ、あれこれととりとめもなくなるのをやめなさい。またもう一つの間違いもせぬように気をつけなくてはならない。すなわち活動しすぎて人生につかれてしまい、あらゆる衝動と思念とを向けるべき目的を持っていない人たちもまた愚か者なのである。

うぐう…

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本を読むこと。

ひとつには「自由で好きに読めばいい」という意見、対極には、「読み方には良し悪しがある」という意見。

26/09/02

今日は松茸を焼いた。

スーパーで、おつとめ品カートの下段に中国産松茸が山積みされているのを偶然見かけ、買ってきたものだ。長さ10cmあるかどうかのもので、2本で999円。とはいえ国産はあまりにも高く手が出ず、去年も一昨年も購入を見送った経緯がある。

秋の風物詩として年1で食べたい程度、別にそこまでの薫り高さは求めない庶民としては、中国産でも十分有り難い。

で、松茸、実は初めて調理した。勝手にフライパンで焼くものだと思っていたが、オーブントースターの方が良いらしい。

石づきを落とす、軽く洗う、という扱いが必要なのも当然初めて知る。軽く塩を振る。予熱したトースターに入れて、数分で敷いたホイルに水分が出始めたら十分。すだちを添えて完成。割と簡単。

冷やした辛めの日本酒がよく合う。

調理すると色々新しく知ることが多く、楽しい。

ところで中国では松茸がよく取れるから普通の食材扱いだと聞く。日本の食べ方もよいが、それはそれで味わってみたい。

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個人向け国債をNISAの対象に加えることが検討されている。

確かに、貯蓄から投資だ(、わけても分散投資だ、GPIFもやっているし)とか言われている割には、分散投資のエクスポージャーとなる資産クラスの1つである債券はNISA対象になっていないのは、不十分な気がしてくる。

もっとも、ETFや投信を経由すればアクセスは可能だけれども、直接アクセスする手段があるのにそちらはNISA対象ではないというのもちぐはぐだ。

ということで賛成ではあるものの、対象が個人向け国債限定なのは理解できない。債券であれば、国内だけでも個人向け国債の他、新発/既発国債(一部証券会社で取り扱いあり)、社債(限定的だが…)とある。

個人向け国債では高々数種類、年限も10年までに留まってしまう。本当に投資を奨めるのであれば、より様々な選択肢を(というか債券を一律で)認めるべきだと思う。

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以上、債券のラインナップから言ってみたが、そもそもNISA対象化の議論はそこから始まってはおらず、国債発行が不調という国の都合により受け皿を増やすべくして出てきた案のようだ。

つまり、「NISA対象として何が適切か」→「現状はどうか」→「ではどう変えるべきか」という本筋の議論から出てきた話ではなく、単に「都合がいいから」であって、場当たり的である。

もちろん国と国民が完全に関係がないとは全く言わないけれども、こんなご都合主義的な理由で制度を決められてしまったら、信用もなにもあったものではないなと思う。

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10年国債が3%となったことが話題である。

3%というのは…かなり感慨深い。

たとえそれが実質金利を伴わなくとも(期待インフレメインの名目が高くなった)、デフレに苦しみ、マイナス金利が常態化し、日銀の目標2%が遠くに思えた10年代からすれば、金利があるということそれ自体が今でも非現実的に思えるくらい。

この、あれだけ物価が上がらなかった日本で3%というのが(実質を抜くと2.x%くらい?)どれだけ続くのか、果たして疑問だが、今回の金利高の有力な原因は政府の積極財政によるさらなる財政懸念や、日銀の利上げ期待によるものであり、少なくとも前者は当面続くだろうから、しばらくは2~3%というのが続くのかもしれない。

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金利に関しては、マイナス金利時代に安い変動でローンを組んだ人が多かったのではと思うが、そういう人たちはこれからどうするのだろうか。

もっとも、影響が出てくるのは最後の方だと思うので、今は大した影響がないのかもしれないが…。

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特に最近は50年ローンというのがあるらしい。

保険会社でも終身は(超長期の)金利リスクが大きいからと切り捨てられ、国債ですら40が限界だと言うのに、負債側で50年というのは中々な事と思う。変動だったら負債の金利感応度も馬鹿にならないだろう。

金融庁も、50年については個別にコメントしている。以下はBloombergの26/08/28記事。

金融庁が「50年住宅ローン」に懸念、個人向け融資の監視強化—関係者 - Bloomberg https://www.bloomberg.com/jp/news/articles/2026-08-28/TKGGMBT9NJLX00
毎月の返済額を抑えられることから若年層を中心に利用が増えている一方、金利上昇や所得減少に伴う返済負担が長期間にわたるリスクもあり、同庁は懸念を強めている。
(略)
住宅価格が高騰する中、同庁は50年ローンや夫婦で借り入れるペアローンなどを通じて、実際の返済能力を超えた借り入れが行われている可能性について利用者保護の観点から懸念を強めている。

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REITだと、昔星野REITを持っていたが、変動⇔固定のスワップを組んで、資金調達の金利を固定していたのが印象に残っている。(実際、REITは結構スワップで固定化していると思っている)

当然、「その時は」変動<固定だったので、その分多く資金調達コストを支払っているということになる。これが、住宅ローンを変動で借りる人の一番の理由にもなっていると思う。

ただ、当然将来の金利リスクを取ることになるわけで、星野REITはそれがREITという受け皿で取るべきリスクではないと判断したから固定化しているのだと思う。

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不動産のリセールバリューがあるから大丈夫、あるいは、変動で浮いた分、資産運用で補填されるからよいといった話はある。

確かに住宅ローンは不動産を担保にしているから、間違ってもいないが、土地はともかく数十年後のウワモノにどれくらいの価値が(その時になって)見いだせるのかというのは、過去統計から「傾向」は分かるかもしれないが(今の最も尤もらしいのは、過去統計からの傾向かもしれないが)、それが将来本当に実現するかは全く分からない。

ここまで書いて思ったが、そもそも私はどうしても、「S&P500はいうて右肩上がりです」とか「タワマンなら大丈夫」といったものがどうしても信じられない。多分バブルのあまりに大きかった後遺症がトラウマのように残っているのだろうし、そもそもリスクを取らずしてリターンはないとも思っているから。

ただ、固定的なキャッシュ・アウトを色々背負ってまで、キャッシュ・インを取りに行かないと生きていけないような時代にも思えていて、正解がない中でやっていかないという不安定さが精神的ストレスだなあ…

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東大が価値創造学部とやらを作るらしい。

説明文を読んでもいまいちよく分からず(綺麗な宣伝文句が書かれていることは理解したが)、ただ、中々卓越大に選ばれない中での試行錯誤の感がある。

学際的な学部のように思えるが、個人的には修士時代に学際よりの学科を出た経験からすると、うまく理解されるといいですね、という感じ。

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他方で文学部の募集人数が減るらしい。それに対するコメントとして「文学等への知的関心の低下」というのがあったが、これは限りあるリソースをどう振り分けるかという配分問題であって、知的関心のみに還元できる話ではないのではないか。と思った。

当然、配分の際に考慮されるべき要素の1つとして知的関心はあるだろうが、知的関心がすべてを決めるわけでもあるまい。

即物的、短時間のスパンでの成果を出せる分野だけが優遇されるべきではない、基礎研究であるとか、必ずしも直接社会(特に、企業)に役立つわけではない分野にも重きを置くべきだ、という話はそうだと思うけれども。

そもそも大学のXX科ではn人の募集ができる、あるいは、全体に対してx%の人員を募集できる、というのは当たり前にある権利ではないのだし、それ抜きにしても、文句は運営方針を決める人たちにどうぞ、という感じ。

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えきねっとのここが嫌い 1 検索機能

えきねっとというJR東日本の予約サイトがある。

悪評高いサイトであるが、どうしても関東の人間が避けては通れないサイトでもある。

仕方なく何度も使っているが、どうにもこうにも痒いところに手が届かない、歯痒さ満載のサイトであると思う。

なので、ここで1つまとめて書いてみることにする。

先に結論:えきねっとに検索機能は求めていない

結論を先に書くが、えきねっとはあくまで「予約サイト」であって「経路検索サイト」ではないと思う。

検索サイトなら、もっと「UIが機能的で」「見やすくもあり」「画面あたり情報量も多い」、マシなサイトが沢山あるからだ。

もしえきねっとが検索するサイトでもあることを謳うのであれば、正直笑止千万とまでは言わずとも「えっ本当にそう思っていたんですか!?えっ、えっ!?!?」くらいにはなるし、実際もっと努力が必要だろう。

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では我々が思うえきねっとの機能とはなにか?それは、えきねっとにしか出来ない予約機能だ。いくら頑張ってもYahoo!乗換案内から特急券の予約はできない。

だから、えきねっとは予約機能に徹した作りをしてくれていればよいのだが、そのような使い分けをしないユーザーもいるので、検索機能もくっついている。そしてそれが曲者であり、結果的に予約したいだけのユーザーも、検索も含めてユーザーも、不便を被っていると思う。

(予約だけしたくても、最低限検索が必要なことも理解はする。が、予約だけしたい人には「要らない」必要以上の検索機能を経なければいけないとも思っている)

UIとしてのイライラ

検索画面に2~3個しか結果が出てこず画面あたり情報量が少ない

一番イライラするのはこれ。ときには2つしか出てこない。

少し後ろの時間を見ようとすると、すぐ「次の列車」を押さないといけない。

携帯のレスポンシブデザインならまだ分かる。が、PCでこれをやられると、折角の大画面が台無し。古いサイトだが、cyberstationの方がまだマシだ。

2つの検索結果「しか」表示されない

画面遷移に数秒かかる

更には、えきねっとは画面遷移に数秒の通信時間がある。総じて、モタモタ。「急いでいるっていう時にこのサイトは!」と思うことは何度もある。

特急券予約と乗車券予約が同じ

更に言えば、特急券予約と乗車券予約のセットがデフォルトの想定。それが、経路検索という闇を呼び出すことに繋がっている。

例えば東武特急のように、あるいはJRの指定席券売機の新幹線のきっぷ購入のように、特急券だけまず予約というスタートにすれば、経路検索なんて面倒なものは経なくて済む。(特急乗車駅、特急降車駅、乗車時間くらいあれば検索ができる)

当然、JR東日本管内だけでも多種多様な列車が走っているので、そううまくは行かないと言われればそうかもしれないが。

検索結果に対するイライラ

幾つかパターンがあるので、以下に載せる。

乗り継ぎ列車を増やす(直通列車以外も表示される)

時として、これが良いパターンもあるだろうが、そうでないときにでてくることも多く、ネットしてイライラの方が勝る。

例えばスクショの例。確かに、上野から乗れば210円安くなる。

しかし、よほどこだわりの強い人ではない限り、はやぶさが上野を通過するからといって、東京から乗らずに上野から乗ることにこだわり、「わざわざ3分早く出て」「上野~大宮と大宮~仙台を別の新幹線」にはしないだろう。

(東京駅が広くて迷うというのは分からなくもないが)

大抵の人は、むしろ新幹線の都合に合わせて東京から乗るのではないか。

なお、大宮の乗り換え時間は3分。同一ホームの対面乗り換えでもない限り、あまりお薦めできないだろう。

ちなみに、検索オプションの「乗り換えなし(直通列車のみで検索)」を押せばこのような選択肢は消えるが、新幹線の前後普通列車も当然消える。結果的に錦糸町→仙台だと検索結果が出てこない。どうもうまくいかない。

それに、「検索オプション」がデフォルトだと非表示なのだ。ボタンを押すひと手間。

更に言えば、「乗り換えなし(直通列車のみで検索)」もデフォルトではオフだ。まあ、これをオンにすると利益を得る人よりも不便を被る人の方が多いだろうから、仕方ない気もするが…。

錦糸町→仙台。東京駅からはやぶさ11号に乗るプランと、上野からはくたか557、大宮乗り換えではやぶさ11

短距離でも特急列車を使う

今見たら出てこなくなっていた。経路検索方法を変えたのだろうか?

昔は、錦糸町~東京でしおさいを使うという謎経路がでてきた。

特急縛りをしている人とか、よほどの富豪でもない限り、そうはしないだろう。

みどりの窓口の人なら、要望がない限り選択肢にも入れないと思う。

普通列車だけのプランを出してくる

えきねっとを使うのは特急券(特に指定席券)を予約したいからだ。

乗車券だけ欲しいというのも、長距離とかでは分からなくもないが、百歩譲って、Suicaが使える圏内でわざわざそんなものを出さないで欲しい。

(事前にえきねっとで予約して、かつ事前に発券しておく、というなら分からなくもない)

普通列車だけのパターン

併結列車が別列車扱いになる

同じでしょうが!

まあ、マルスのシステム上別列車の扱いなのだろう。百歩譲って、事情は理解する。がしかしそれをそのまま出さないで欲しい。もう少し加工というものをして欲しい。

はやぶさとこまちは別に表示される。実際は(連結部の行き来ができないとはいえ)併結されていて同じ列車に思える

時間順が逆転している

えきねっと、検索結果は基本的には「到着が早い順」「その中では出発が遅い順」に結果が並んでいると思う。

しかし、ときたまそれに逆行する結果が出てくる。ソート順が安定していないと思うので、油断ができない(次の列車を表示すると、実はそっちのほうがよかったとか)

例えば、「検索画面に2~3個しか結果が出てこず画面あたり情報量が少ない」で表示した結果のように、「08:18 → 09:48」の後に、それよりも出発も到着も早い「07:56 → 09:30」の結果が出てくる。

総じて、統一性がない。統一性がないと、自分がどこにいるのかわからなくなる。「次の列車」が本当に「次の列車」なのか怪しくなる。検索結果に対する信用度が下がる。

BAD UI:灰色だが押せるボタン等(ハイウェイバスドットコム)

長野に行くのによく高速バスを使う。高速バスの予約サイトは取扱路線の大そうなところで3社あるが、長野行きはハイウェイバスドットコムが多い。

正直、ハイウェイバスドットコムは他2社よりサイトの出来が良いと思う。一番ストレスを感じない。

それでも気に入らないところがあるので書く。

1. 灰色だが押せるボタン

同じ「押せるボタン」なのに、戻ったりするのは灰色。

↓の画面だと、「←戻る」がそれに相当する。

灰色なら、非アクティブ、押せないボタンに思える。「進む」と「戻る」で色分けしたのかもしれないが、それにしても灰色はちょっと。他のサイトはただの「戻る」にそこまでの色は使わないと思う。

まさか「灰色なら押せないだろう」という心理を逆手に取って、購入から戻りにくくするという邪悪な意図があるのか?と勘ぐってしまう。

2. 往復が片道より上にあるデフォルト

往復の方がユーザー数が多いから、上にあるのだろうか?それとも、往復を押してしまいやすくなるようなデザインにして、復路も顧客を繋ぎ止めようとする意図が働いた結果なのか?

急いでいる時にここで間違って上を押してしまいやり直すパターンが何回かあって、個人的に嫌っている。

3. ブラウザの戻るボタンが使えない

ブラウザが先、あなたのWebアプリケーションは後💢

とはいえ、全く理解しないでもないが…

4. 小出しのエラーメッセージ

空席照会で入力する。「日付が指定されていません」とエラー・メッセージが出る(昔のポップアップダイアログで)。

ああ、そうだった、と思って日付を入力すると、今度は「人数が指定されていません」と出る。

もうね、ステップが多すぎる。全部書いてくれ。というか、いちいちOKを押させにくるポップアップダイアログじゃなくて、入力の下とかに書いてくれ。

まだ検索入力欄だからいいけれど、これが決済欄でクレカ情報込みだと、次のような手間が発生してとても苛つく。

  • 大量の入力欄と、クレカ入力欄がある画面が出てくる
  • 入力欄を埋め、クレカ情報を書く
  • 「XXに不備があります!」とポップアップダイアログ
  • ああそうだった…と、XXについて埋めると、今度は「クレカ情報が入力されていません!」
  • そう、少しでも再入力が発生するとクレカ情報が消えるのだ

スクショ

26/07/11

皇族の条件が世間では話題である。

これは本当に時間を掛けて報道されるべき話なのだろうか。

そもそも私にはこのような話題に全然興味がわかない。なので、ワイワイ騒げる人のことがある意味では羨ましくもあるし、いちいち気になってしまうのは大変であろうと憐れみを覚えすらする。

一体皇族の条件がどうしたというのであろうか。これは、パンとサーカスのパンだけで事足りるような人間の発想かもしれない。

しかし、そもそもそれは国民が決めるものなのだろうか?皇族は、人権があるのだかないのだか、良く分からない。特権的であるが、制約も凄まじい。その線引を我々がああだこうだ思いつきで言って決めていくのだろうか。

皇族の条件を皇族以外が決める。裏では当然意思疎通がはかられているのだろうとは思うが、しかし傍から見れば滑稽な話に思えなくもない。

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死んだ祖父は、天皇の話になるとどうも煮えきらない態度を示していた。祖父の口癖を借りるならば「こりゃ弱ったね」というような態度である。

戦争を経験した世代であったから、あまり私には語らなかったが、内心思うことは沢山あったのだろう。

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羅臼岳にまた熊が出たようだ。登山道が再オープンしてから僅か数日のことであった。

しかも、場所は標高550m程度とのこと。前回死者が出た場所にかなり近いのではないだろうか。

事前のパトロールでは熊との遭遇はなかったのだろうから、偶然なのかもしれないが、通行人の数は段違いであるから、必然であったのかもしれない。

いずれにせよこの調子だと、もう羅臼は登れないのかもしれない。

カムイワッカからの硫黄山側も、去年に引き続き、今年も人を恐れないらしい熊が出たらしい。

昔から知床連山縦走はしたいと思っていたし、実際去年8月には飛行機を予約し、カムイワッカの通行許可も取っていたが、この調子では数年スパンで無理だろう。何なら百名山が九十九名山になりそうな勢いである。

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都民の森も熊で閉鎖される始末。クマ圧が強くなっている。

コロナ禍を経て、山も予約の時代となった。テントに小屋、バス。気兼ねなくおいそれとは行けなくなっている。

時代は変わるものである。

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今年の夏は涼しい。去年とは大違いである。7月に入ったのに、まだ35といった数値を見ていない。

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『まず、四十年の暮れには、いわゆる「原宿族」の若者たちが表参道一帯を舞台にして、クルマでサーキット遊びを行うようになり、 これに野次馬の少年たちが加わって、付近は夜明けまで喧騒を極めた。 その後、このような活動は、次第に都内のいくつかの盛り場に広がっていった。 これが警察の取締りや付近住民の追放運動によって四十二年頃に姿を消してからは、新宿副都心公園や荒川堤防が単車を中心としたサーキット遊びの舞台となった。』 (暴走族のエスノグラフィー 佐藤郁哉著 pp.7-8より)

都内の盛り場。今はあんだろうか。東横脇とかだろうか。

と思ったら警視庁がなんかページを作っていた。

東京都内における主要な盛り場 警視庁 https://www.keishicho.metro.tokyo.lg.jp/kurashi/anzen/sakaribasogo/taisaku.html

違法客引き等出没エリアマップというのもあって、

新橋、池袋、上野湯島、立川などはちょっと意外かも。

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マンション売値÷(賃貸の家賃×12)倍率みたいなのこそが、マンションを買うかどうかの指標では?

でも誰も見ていないな

26/07/10

「なぜ、世界はルワンダを救えなかったのか: PKO司令官の手記」を読んだ。

10年来の積み本であったから、解消したことは喜ばしい。積み本とは何であれ、脳の片隅に時たま引っかかるノイズ、厄介事、しこりのような存在だからだ。

しかし非常にモヤモヤする本でもあった。

元来、国連が国の上の機関、すなわち超国家的機関であるというよりは、国益第一の超大国同士の思惑に雁字搦めになっている下級の機関のように思えて仕方がないから。

しかし我々はやはり不平等のなかに身を置いているし、腐ってもまだなんとか第一世界のような国に住む人間としての居心地の悪さがある。

それは苛めを傍観して消極的な加害者として、事が終わった後に自分が責められないということを知って安堵したあとのようなモヤモヤだ。

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西欧は自分たちが人権の絶対的な推進者であり守護者であるかのような顔をしているが、結局のところ組織としての国家は自国民の利益を追求してしまうし、関心のないものに対しては本当に関心がない。

それは人が同じ利益を守る集団を作ったときに生じることなのだから、石をいくら投げても歴史は繰り返されるだろうし、そもそも普遍的な平和追求機関であってほしいとあまり期待もしていないから、どうでもいい。

ただ、そのような偽善であることを疑わずに面と向かって色々言ってくると思うところはある。

私にとって西欧とは、おそらく死ぬまで他者であろう。彼らが何者なのか、彼らの考えることは本当に正しいのかということを第三者的に問い考え続けなければいけない(別に西欧に限らず、何事にも)。

西欧にひたすら従い、子犬のように尻尾を振ることを至上とするタイプの人にはこの本を贈りたい。

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あるいは官僚的な組織の中で、自己保身と機敏性のなさに藻掻き喘ぎ苦しむことへの共感からだろうか。

そこでは下らないことが追求すべき目標になるし、社会的には大事な問題も我々のやることではないと言って切り捨てられる。

利害調整のために時間が幾百も費やされ、初めたときには遅すぎる。

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私は時々「別に私の利害は興味がありません。それは最適化のときに考慮すべき事項に入りません。全社的な『よいこと』のためであれば我々の仕事が失われても何の問題もないのでは?」といったことを言うが、その度に相手は曖昧な苦笑いをする。

その考えがよく分からない。

自組織が悪く言われることを回避しようと調整に走り回る。プレゼンスが無くならないようにする。そのような保身のためになぜ私が努力しないといけないのか。

悪いものは悪いのだし、なぜ甘んじて受け入れないのか。自分たちが不安がるほど日本の正規の雇用契約は労働者には不利でないというのに。

別に会社側に与すほどのことでもないが、言っていることとやっていることが違うのが気に入らないのだ。「では一体、貴方は何がしたいのですか。本当に利益を追求したいのですか」と問いかけたくなる。

別に利益追求など目的でもなく、給与が欲しいだけかもしれない。私はそうだ。でも、それならどうして余計な仕事を増やすのか。

95%を50時間でやり、そこから99%まで追加で40時間くらい掛ける。そういうアンバランスさも気に入らない。微に入り細を穿つのは大事ではあるが、そこにはコストとパフォーマンスの天秤があるはずだ。本当にそのコストを掛ける必要があるのか?そのアウトプットの精度は本当に求められているのか?

何百時間・人を費やして出した数値が、一ヶ月もすれば存在など無かったかのように消える。一体ではその労力の消費は正しかったのか?疑問は尽きないし、疑問が尽きないような場所にいることに疲れている。

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さてその後、北朝鮮の管理所に関する本を手に取ったが…。まさしく先程までのダレール将軍の後書きが私の思考に付いて回る。

なぜ読むのだろうか。エンタメとか、ダーク・ファンタジーとでも思っているのだろうか。一抹の好奇心だろうか。まるで石の裏をひっくり返して、そこに虫が沢山ひっつく仄暗い現実があることを確認するかのようだ。

読んで「ああなんて酷いのだろう!」と思ったとする。しかしそのような思考をしながら、我々は、道端にホームレスがいてもそこには誰もいないかのように振る舞う。海外旅行に出かけ、物乞いを見たらあっちに行けと追い払う。白人以外がいると、犯罪率が高そうだと考える。自分の財産を減らしてまで他人を助けようと思わない。 その「酷いのだろう!」と思った感情は一体どこに行ったのか。困ったことに自分の中に両立している。

結局、自分が人権に対して思いを馳せるのは机上の話であって、現実に自分の身に降り掛かってくるとそのような振る舞いはしない。NIMBY(not in my back yard)である。

むしろ人間はそのようなものなのであるからこそ、利他的な振る舞いをする人間には拍手喝采なのだろうか。

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管理所のことは知っている。しかし、それで具体的なアクションはなにも起こさない。それでは、何かすればそれだけよいのだろうか。

「私たちは真剣に人権を考えている!」と額にシワを寄せて主張すれば、それで許されるのだろうか。問題は解決していないのに。

行動が大事だという人がいる。草の根民主主義的だと思う。

しかし、「民衆の力」というものは今どれだけあるのだろうか。特にデモや署名など、やればやるほどその効果のなさを自ら語っているように思えて仕方がない。

私は、効果の出ないことを延々やり続けるのは無駄に思えてしまう。効果が出ていない「ように見えるだけ」かもしれないが。

この発想は資本主義的なのかもしれない。しかし、限られた力はなるべく効果的に使いたいのは誰しも同じではないだろうか。

許される範囲内であれば、過程などというものはどうでもよく、どれだけ成果を上げられたかが大事なのだ。「満足感」だの「達成感」だので計られるべきなのだろうか。

逆に、組織された団体というのは強いと思っている。無視できない存在。

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何の話をしているのかわからなくなってきた。話を戻す。

北朝鮮は社会主義的なはずなのだが、出身身分によって人生が決まるほどであるし、平壌と農村の間をとってもかなりの差があると思う。

思わずジニ係数を調べてみようとしたが、そもそも統計が存在しなかった。

管理所も、素朴に表現すれば、まさに「胸糞の悪くなるような」話である。正直、前の本とあわせると読むのも辟易としてきた。

結局、好奇心という怪物が一時顔を向けただけだったのだろうか?それでは、北朝鮮の曲にキャッキャする人と変わらないということだ。そうだったのか。

情けない。情けないが、そのような自分を許す甘い自分が居る。自分は自分ということなのだろうか。

26/06/26

Kaixo!

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先週末は牛すじ赤ワイン煮込みを作ってみた。よくワインバルで出てくるあのうまいやつ(トリッパのトマト煮込みと双璧)。

牛すじ自体は、一ヶ月くらい前に下処理&1時間程度の煮込みをし、冷凍していたもの。 煮汁も冷凍保存していたが、解凍したところ、思ったより風味がなかった。

調理レシピは、赤ワイン煮込みといいつつトマト缶を使うものが大半。他に、ネットだとシチューのルー使うやつとか、圧力鍋使うやつとかがあり、なかなか決まりきったメニューが出てこない。

玉ねぎとにんじんを入れて弱火で火を通したら、牛すじ、赤ワイン、その他諸々を叩き込んで煮る。途中までシチューにでも変身できるやつ。牛すじ少なめだったので、量の調整のためにキノコを入れたがよかった。

煮込み20分くらいでは「あ~赤ワインとトマト缶を入れて2で割ったやつだ…」

煮込み30分くらいでは「水分飛ばね~…」

となっていたが、煮込み40分になると奇跡の融合が起き、赤ワイン⊕トマト缶という1+1以上の味になった。凄い。

自分で作ったのに「美味いな~これ」と言いながら食べた。

なお、余った赤ワインは当然胃袋に消えた。

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最近はズッキーニが出回り始めた。カレーに入れれば夏野菜っぽいし、余った油で炒めても良し、便利でちょっと贅沢な気分になれるやつだ。

果物で言えば、さくらんぼとライチ。さくらんぼは日持ちしないから(といっても野菜室に入れて一週間くらい耐えさせているが)バクバク食べなければならず大変。草の中では甘い。

ライチって美味しいよね。ソルティライチの味がする。

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貰い物の黒毛和牛ステーキ肉も焼いた。流石に黒毛和牛を普段買うことはない。一口食べるだけで、うーん赤ワインを飲まなければ失礼!という気持ちになる。

ステーキ肉を焼くのは難しいのかと思っていたが、↓のサイトのとおりやったらいい感じにレア~ミディアムレアにできた。

www.aussiebeef.jp

動かさない、これが大事らしい。油を塗って、肉を置いて、後は時間管理。なんというか、工場のライン作業のようである。そして、鉄板焼をやっている気がしてきた。

あと、牛脂がカビるという初の体験をした。

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なぜ人は、スポーツをやっている人間を応援するのだろうか。

人間Aがスポーツをやるのはその人の自由意志によるもので…いや脅されているかもしれないが…別に私が頼んだことではない。

その人間の勝手なのであるから、勝手にやっていればいいではないか、という気にしかならない。

それを応援するのもまあその人の勝手であるが、こちらまで応援しなければ人非人のような扱いをしてくるのにはうんざりする。

応援して何が得られるというのだろうか。失われる時間、それに見合った対価が一体何なのか。私には全く理解できない。

Aが良い結果を得られたら嬉しいという人間がいる。AはAの意志によって努力したのであろうから、まあそのような良い結果に終わることもあろう。 しかしそれもまたAの意志によるものである。我々が介在する要素がない。

Aからしても、自分が頑張っているのは自分の意志によるものなのであるから、応援があろうがなかろうが、結果は変わらないのではないだろうか。

人間というのは良く分からない。

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そういえば、「人間は動物だ」というと憤慨する人間が時たまにいる。

その人が動物を下等な存在として卑下しているのはその人の勝手であるが、動物「的」な扱いをされて憤慨するのはお門違いであるし、なんといっても人、あるいはホモ・サピエンスというものは動物の1つである。そうでなければ一体何だというのか、不思議でならない。植物、あるいは細菌とでもいうのだろうか。

そちらのほうが人間というものを馬鹿にしているということにならないのだろうか。

人は動物である。