あすたま・なーにゃ

Eguneroko bat, eguneroko bizitzako gertaera mundutarren kronika egiten duena.

26/07/11

皇族の条件が世間では話題である。

これは本当に時間を掛けて報道されるべき話なのだろうか。

そもそも私にはこのような話題に全然興味がわかない。なので、ワイワイ騒げる人のことがある意味では羨ましくもあるし、いちいち気になってしまうのは大変であろうと憐れみを覚えすらする。

一体皇族の条件がどうしたというのであろうか。これは、パンとサーカスのパンだけで事足りるような人間の発想かもしれない。

しかし、そもそもそれは国民が決めるものなのだろうか?皇族は、人権があるのだかないのだか、良く分からない。特権的であるが、制約も凄まじい。その線引を我々がああだこうだ思いつきで言って決めていくのだろうか。

皇族の条件を皇族以外が決める。裏では当然意思疎通がはかられているのだろうとは思うが、しかし傍から見れば滑稽な話に思えなくもない。

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死んだ祖父は、天皇の話になるとどうも煮えきらない態度を示していた。祖父の口癖を借りるならば「こりゃ弱ったね」というような態度である。

戦争を経験した世代であったから、あまり私には語らなかったが、内心思うことは沢山あったのだろう。

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羅臼岳にまた熊が出たようだ。登山道が再オープンしてから僅か数日のことであった。

しかも、場所は標高550m程度とのこと。前回死者が出た場所にかなり近いのではないだろうか。

事前のパトロールでは熊との遭遇はなかったのだろうから、偶然なのかもしれないが、通行人の数は段違いであるから、必然であったのかもしれない。

いずれにせよこの調子だと、もう羅臼は登れないのかもしれない。

カムイワッカからの硫黄山側も、去年に引き続き、今年も人を恐れないらしい熊が出たらしい。

昔から知床連山縦走はしたいと思っていたし、実際去年8月には飛行機を予約し、カムイワッカの通行許可も取っていたが、この調子では数年スパンで無理だろう。何なら百名山が九十九名山になりそうな勢いである。

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都民の森も熊で閉鎖される始末。クマ圧が強くなっている。

コロナ禍を経て、山も予約の時代となった。テントに小屋、バス。気兼ねなくおいそれとは行けなくなっている。

時代は変わるものである。

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今年の夏は涼しい。去年とは大違いである。7月に入ったのに、まだ35といった数値を見ていない。

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『まず、四十年の暮れには、いわゆる「原宿族」の若者たちが表参道一帯を舞台にして、クルマでサーキット遊びを行うようになり、 これに野次馬の少年たちが加わって、付近は夜明けまで喧騒を極めた。 その後、このような活動は、次第に都内のいくつかの盛り場に広がっていった。 これが警察の取締りや付近住民の追放運動によって四十二年頃に姿を消してからは、新宿副都心公園や荒川堤防が単車を中心としたサーキット遊びの舞台となった。』 (暴走族のエスノグラフィー 佐藤郁哉著 pp.7-8より)

都内の盛り場。今はあんだろうか。東横脇とかだろうか。

と思ったら警視庁がなんかページを作っていた。

東京都内における主要な盛り場 警視庁 https://www.keishicho.metro.tokyo.lg.jp/kurashi/anzen/sakaribasogo/taisaku.html

違法客引き等出没エリアマップというのもあって、

新橋、池袋、上野湯島、立川などはちょっと意外かも。

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マンション売値÷(賃貸の家賃×12)倍率みたいなのこそが、マンションを買うかどうかの指標では?

でも誰も見ていないな

26/07/10

「なぜ、世界はルワンダを救えなかったのか: PKO司令官の手記」を読んだ。

10年来の積み本であったから、解消したことは喜ばしい。積み本とは何であれ、脳の片隅に時たま引っかかるノイズ、厄介事、しこりのような存在だからだ。

しかし非常にモヤモヤする本でもあった。

元来、国連が国の上の機関、すなわち超国家的機関であるというよりは、国益第一の超大国同士の思惑に雁字搦めになっている下級の機関のように思えて仕方がないから。

しかし我々はやはり不平等のなかに身を置いているし、腐ってもまだなんとか第一世界のような国に住む人間としての居心地の悪さがある。

それは苛めを傍観して消極的な加害者として、事が終わった後に自分が責められないということを知って安堵したあとのようなモヤモヤだ。

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西欧は自分たちが人権の絶対的な推進者であり守護者であるかのような顔をしているが、結局のところ組織としての国家は自国民の利益を追求してしまうし、関心のないものに対しては本当に関心がない。

それは人が同じ利益を守る集団を作ったときに生じることなのだから、石をいくら投げても歴史は繰り返されるだろうし、そもそも普遍的な平和追求機関であってほしいとあまり期待もしていないから、どうでもいい。

ただ、そのような偽善であることを疑わずに面と向かって色々言ってくると思うところはある。

私にとって西欧とは、おそらく死ぬまで他者であろう。彼らが何者なのか、彼らの考えることは本当に正しいのかということを第三者的に問い考え続けなければいけない(別に西欧に限らず、何事にも)。

西欧にひたすら従い、子犬のように尻尾を振ることを至上とするタイプの人にはこの本を贈りたい。

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あるいは官僚的な組織の中で、自己保身と機敏性のなさに藻掻き喘ぎ苦しむことへの共感からだろうか。

そこでは下らないことが追求すべき目標になるし、社会的には大事な問題も我々のやることではないと言って切り捨てられる。

利害調整のために時間が幾百も費やされ、初めたときには遅すぎる。

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私は時々「別に私の利害は興味がありません。それは最適化のときに考慮すべき事項に入りません。全社的な『よいこと』のためであれば我々の仕事が失われても何の問題もないのでは?」といったことを言うが、その度に相手は曖昧な苦笑いをする。

その考えがよく分からない。

自組織が悪く言われることを回避しようと調整に走り回る。プレゼンスが無くならないようにする。そのような保身のためになぜ私が努力しないといけないのか。

悪いものは悪いのだし、なぜ甘んじて受け入れないのか。自分たちが不安がるほど日本の正規の雇用契約は労働者には不利でないというのに。

別に会社側に与すほどのことでもないが、言っていることとやっていることが違うのが気に入らないのだ。「では一体、貴方は何がしたいのですか。本当に利益を追求したいのですか」と問いかけたくなる。

別に利益追求など目的でもなく、給与が欲しいだけかもしれない。私はそうだ。でも、それならどうして余計な仕事を増やすのか。

95%を50時間でやり、そこから99%まで追加で40時間くらい掛ける。そういうアンバランスさも気に入らない。微に入り細を穿つのは大事ではあるが、そこにはコストとパフォーマンスの天秤があるはずだ。本当にそのコストを掛ける必要があるのか?そのアウトプットの精度は本当に求められているのか?

何百時間・人を費やして出した数値が、一ヶ月もすれば存在など無かったかのように消える。一体ではその労力の消費は正しかったのか?疑問は尽きないし、疑問が尽きないような場所にいることに疲れている。

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さてその後、北朝鮮の管理所に関する本を手に取ったが…。まさしく先程までのダレール将軍の後書きが私の思考に付いて回る。

なぜ読むのだろうか。エンタメとか、ダーク・ファンタジーとでも思っているのだろうか。一抹の好奇心だろうか。まるで石の裏をひっくり返して、そこに虫が沢山ひっつく仄暗い現実があることを確認するかのようだ。

読んで「ああなんて酷いのだろう!」と思ったとする。しかしそのような思考をしながら、我々は、道端にホームレスがいてもそこには誰もいないかのように振る舞う。海外旅行に出かけ、物乞いを見たらあっちに行けと追い払う。白人以外がいると、犯罪率が高そうだと考える。自分の財産を減らしてまで他人を助けようと思わない。 その「酷いのだろう!」と思った感情は一体どこに行ったのか。困ったことに自分の中に両立している。

結局、自分が人権に対して思いを馳せるのは机上の話であって、現実に自分の身に降り掛かってくるとそのような振る舞いはしない。NIMBY(not in my back yard)である。

むしろ人間はそのようなものなのであるからこそ、利他的な振る舞いをする人間には拍手喝采なのだろうか。

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管理所のことは知っている。しかし、それで具体的なアクションはなにも起こさない。それでは、何かすればそれだけよいのだろうか。

「私たちは真剣に人権を考えている!」と額にシワを寄せて主張すれば、それで許されるのだろうか。問題は解決していないのに。

行動が大事だという人がいる。草の根民主主義的だと思う。

しかし、「民衆の力」というものは今どれだけあるのだろうか。特にデモや署名など、やればやるほどその効果のなさを自ら語っているように思えて仕方がない。

私は、効果の出ないことを延々やり続けるのは無駄に思えてしまう。効果が出ていない「ように見えるだけ」かもしれないが。

この発想は資本主義的なのかもしれない。しかし、限られた力はなるべく効果的に使いたいのは誰しも同じではないだろうか。

許される範囲内であれば、過程などというものはどうでもよく、どれだけ成果を上げられたかが大事なのだ。「満足感」だの「達成感」だので計られるべきなのだろうか。

逆に、組織された団体というのは強いと思っている。無視できない存在。

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何の話をしているのかわからなくなってきた。話を戻す。

北朝鮮は社会主義的なはずなのだが、出身身分によって人生が決まるほどであるし、平壌と農村の間をとってもかなりの差があると思う。

思わずジニ係数を調べてみようとしたが、そもそも統計が存在しなかった。

管理所も、素朴に表現すれば、まさに「胸糞の悪くなるような」話である。正直、前の本とあわせると読むのも辟易としてきた。

結局、好奇心という怪物が一時顔を向けただけだったのだろうか?それでは、北朝鮮の曲にキャッキャする人と変わらないということだ。そうだったのか。

情けない。情けないが、そのような自分を許す甘い自分が居る。自分は自分ということなのだろうか。

26/06/26

Kaixo!

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先週末は牛すじ赤ワイン煮込みを作ってみた。よくワインバルで出てくるあのうまいやつ(トリッパのトマト煮込みと双璧)。

牛すじ自体は、一ヶ月くらい前に下処理&1時間程度の煮込みをし、冷凍していたもの。 煮汁も冷凍保存していたが、解凍したところ、思ったより風味がなかった。

調理レシピは、赤ワイン煮込みといいつつトマト缶を使うものが大半。他に、ネットだとシチューのルー使うやつとか、圧力鍋使うやつとかがあり、なかなか決まりきったメニューが出てこない。

玉ねぎとにんじんを入れて弱火で火を通したら、牛すじ、赤ワイン、その他諸々を叩き込んで煮る。途中までシチューにでも変身できるやつ。牛すじ少なめだったので、量の調整のためにキノコを入れたがよかった。

煮込み20分くらいでは「あ~赤ワインとトマト缶を入れて2で割ったやつだ…」

煮込み30分くらいでは「水分飛ばね~…」

となっていたが、煮込み40分になると奇跡の融合が起き、赤ワイン⊕トマト缶という1+1以上の味になった。凄い。

自分で作ったのに「美味いな~これ」と言いながら食べた。

なお、余った赤ワインは当然胃袋に消えた。

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最近はズッキーニが出回り始めた。カレーに入れれば夏野菜っぽいし、余った油で炒めても良し、便利でちょっと贅沢な気分になれるやつだ。

果物で言えば、さくらんぼとライチ。さくらんぼは日持ちしないから(といっても野菜室に入れて一週間くらい耐えさせているが)バクバク食べなければならず大変。草の中では甘い。

ライチって美味しいよね。ソルティライチの味がする。

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貰い物の黒毛和牛ステーキ肉も焼いた。流石に黒毛和牛を普段買うことはない。一口食べるだけで、うーん赤ワインを飲まなければ失礼!という気持ちになる。

ステーキ肉を焼くのは難しいのかと思っていたが、↓のサイトのとおりやったらいい感じにレア~ミディアムレアにできた。

www.aussiebeef.jp

動かさない、これが大事らしい。油を塗って、肉を置いて、後は時間管理。なんというか、工場のライン作業のようである。そして、鉄板焼をやっている気がしてきた。

あと、牛脂がカビるという初の体験をした。

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なぜ人は、スポーツをやっている人間を応援するのだろうか。

人間Aがスポーツをやるのはその人の自由意志によるもので…いや脅されているかもしれないが…別に私が頼んだことではない。

その人間の勝手なのであるから、勝手にやっていればいいではないか、という気にしかならない。

それを応援するのもまあその人の勝手であるが、こちらまで応援しなければ人非人のような扱いをしてくるのにはうんざりする。

応援して何が得られるというのだろうか。失われる時間、それに見合った対価が一体何なのか。私には全く理解できない。

Aが良い結果を得られたら嬉しいという人間がいる。AはAの意志によって努力したのであろうから、まあそのような良い結果に終わることもあろう。 しかしそれもまたAの意志によるものである。我々が介在する要素がない。

Aからしても、自分が頑張っているのは自分の意志によるものなのであるから、応援があろうがなかろうが、結果は変わらないのではないだろうか。

人間というのは良く分からない。

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そういえば、「人間は動物だ」というと憤慨する人間が時たまにいる。

その人が動物を下等な存在として卑下しているのはその人の勝手であるが、動物「的」な扱いをされて憤慨するのはお門違いであるし、なんといっても人、あるいはホモ・サピエンスというものは動物の1つである。そうでなければ一体何だというのか、不思議でならない。植物、あるいは細菌とでもいうのだろうか。

そちらのほうが人間というものを馬鹿にしているということにならないのだろうか。

人は動物である。

26/06/23

Kaixo!

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昨日は睡眠時間を削りすぎた(犠牲にしすぎた)。

あまりにも眠いが、それでも午前は忙しかった結果、昼から使い物にならなかった。

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時間というのは貴重なものである。生活において、時間を喰う非定例な割り込みが入らないということは幸せである。

その点、よくよく理解していただきたいが…。

時間が有り余っていると人生で感じるような人について、そもそも存在を理解できない気もするが、何であれ相互理解不能であろう。

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ところで秋月電子通商と調べると、よく福岡の秋月がでてくる。

全く馴染みのない土地であったが、秋月藩の城下町であり重伝建に指定されていて、貴重な町並み・家屋が残っているようである。

福岡には2~3度、ちょっと行ったくらいであまりよく知らないが、周りにも色々あるんだなあと思った。

秋月へは、甘木鉄道・西鉄甘木線で甘木に行き、そこからバスらしい。ローカル線(なのか?)も乗れるし、旅行の目的地にいいかもしれない。

特に甘木鉄道は大刀洗も通るので、見どころが多そうだ。久留米も久留米藩のお膝元だしなあ。

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どうも男というのは、こう、コンプ欲、あるいは微に入り細を穿つようなマニアックな知識を付けるのが好きで、鉄オタとか、ミリオタとか、何であれ自分の領分であれば他人より詳しいということに密かに自信を持っている。

最近、歴史に関する文庫本とかをそこそこ読むようになったが、これも手軽にちょっとマニアックな知識を補給できる…からなのだろうか。

(当然、ノン・フィクションであるが、ノン・フィクションというのは極めて小説側からの視点による区別だと思う。小説の外せない特徴は作り話であることだから、作り話かそうでないかという「切り口の1つ」として語るのであればよいが、あまり小説を読まない自分からしたら、そんな切り口にわざわざ触れる必要性も感じない)

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人生、モラトリアムの延長みたいになっていたが、どうもそろそろそれも終いのようである。次のフェーズに移らなくてはいけないらしい。

はあ。日本各地を放浪したくなる。

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土日どちらか1日だけでもなんとかなりそうなライフワークとして、新編武蔵風土記稿の地を辿る、とか、いいかもしれない。

いや、関東だけだと飽きるか。地形図で気になった場所に赴くだけでも一生どころか十生掛かりそうだし、それで終わりそう。

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讃岐うどんの乾麺を貰った。茹で時間が25分と書いてある。凄まじい。なお、美味しいとのこと。うどんに25分かあ…。

ちなみに私は関東の人間なので、あまり麺類を普段食べない。

【(有)三野製麺所】乾燥讃岐手打うどん(通常麺2食分) | 通販【栗林庵オンラインショップ】さぬきうどん・香川漆器・ほんまもん麦茶等のかがわ県産品販売 https://www.ritsurinan.jp/c/noodles/udon/gd37

26/06/20

Kaixo!

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最近アイヌ語の動画を見た。ご妙齢のご婦人方が喋っているので、おそらくネイティブなのだろう。

www.youtube.com

うーん、なるほど発音やイントネーション?は日本語とはかけ離れている。それに、日本人ネイティブが第2言語として学習し話すのともまた違うように感じる。

確かに母音は5つであるが、閉音節(北海道のカタカナアイヌ表記でよく見る小文字のロとか)が多いのに、これをカタカナで表記するのはどうなのか。

後述するが、二風谷もNiptani = ニㇷ゚タニ → ニブタニだし、どうしても日本人はカタカナで書かれるとそれに引っ張られるから、まだアルファベットで書かれたほうが分かりやすい。 イランカラㇷ゚テ自体もirankarapteだからプと発音してしまうのでは違うのだろう。そしてこのような閉音節があることがアイヌ語の特徴なのであるから、日本語訛りのアイヌ語とならないためには云々。

まあ、振興されないでサイレントに消えていくよりは、余程マシだけど。

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そういえば幌尻岳に登ろうとした時、このときは結局大雨でバスが出ず諦めたが、日高は沙流(さる)の平取(らとり)町という場所から入山予定であった。

ここはどうもアイヌの割合が多い自治体のようで、特に二風谷(にぶたに)にはアイヌ博物館などがある。 帰ってからそのことを知ったので寄らなかったが惜しいことをした。チセの再現などもあるらしい。

ゴールデンカムイは好きな作品の1つであるし、次はついでに寄りたいところである。

ただ、北海道の公共交通機関というのはおしなべて終わっており、日高支庁の太平洋側からアクセスすると、概ね平取まで1日6便、そこから先は4便(土休日は3便)。と言った具合である。 まあ、非地元民が使える、しかもオンデマンドではなくバス会社(道南バス)の運行するバスが有るだけ相当マシな部類だと思う。

人が少ないルートを旅したいならおすすめである。悲しいことだが。日高ターミナルから占冠まで抜けることも出来る。

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書いていたら北海道の冷涼さが懐かしくなった。特に6月頃に行った稚内・利尻なんて最高だった。

夏でも涼しい…いや最近は暑いんだけど…それでも湿気はそれほどでもない。そこだけでも救いがある。

正直お金があるなら避暑地にしたいくらいだが、ないし、時間もない。

もっとも、全般的に不便さも伴う土地が多く、車無しには生きていけないし、そうでなくても広いしいちいち遠い。札幌などの大都市の中心を除けば、スケールが車基準なのだ。

それでも、あの涼しさには価値がある。東京の周りで避暑地といえば軽井沢とかの標高の高いところが筆頭となる、確かに高原気候っぽくなるから涼しくはなるが、太陽は強烈だ。

稚内、遠いけどね…(そしてANA便が全然安くならない)。

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お化け屋敷は恐怖できるか / 恐怖について

「恐怖を煽るための演出」に恐怖できるだろうか。何故ならばそこにあるのは「恐怖されるための演出」であって本当のものではない。フェイクなのだ。

当然フェイクすぎると人は怖がらなくなってしまうだろうから、リアルに寄せようとする。なるべくリアルを追求したフェイク。しかしどこまでいってもフェイクはフェイクのような気がする。

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私はどちらかと言うと、重大な損失を起こしてしまった/起こしてしまいそうなときに恐怖する。

これは、私が命の損失というものを無限大の損失だと思っているところが主因である。

生に希望があるからこそ、死の恐怖をこのように捉えていると考えることが出来る。あるいは、実際に死んでしまえば何も出来ないので、「出来ない」の無数の積み重ねとなるそのシナリオの期待値はマイナスに振り切れていると思ってもよい。

人間の感情を顧みないことを良く書いてはいるが、命に関しては殊更に重いと思っているのはちぐはぐな感じがする。ただまあ自分のことだからそう思っているだけで、別に不整合ではないかもしれない。

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さてどんなときに恐怖するのか、というと、まずは何かを「やってしまった」とき。例えば、交通事故を起こしてしまった時などが当てはまるだろう。

今までは普通だったはずの生活が一転する。それは嫌でも分かってしまう。逃げずに現実と立ち向かえるだろうか。個人的には、なかなか勇気がいることだと思う。逃げ出す人間の気持ちも分かる。

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あるいは、死ぬかもしれないと事態が発生したと分かっているが、それを回避できない時。

例えば少し大きそうな地震が始まったことを感知した場合、我々に出来ることは机に潜るとかそういう防御しかない。 しかし、巨大地震であれば、建物が倒壊するかもしれなければ、もう圧倒的に無力である。 この結果を待つだけの時間、生存ガチャの結果が分かるまでの時間、これはかなりの恐怖である。

別の話として、登山道で岩が落ちてくる音を聞いたときも、似たような気持ちになる。まあ音の大小で距離とかを大雑把に推測することは出来る。 しかし直上から降ってきたらどうなるか。落石のスピードは結構早いので、避けられるかというと怪しい。一回、気がついたら石が落ちてきて、結果的に小さな石だけだったから難を逃れたことがあった*1

間違いなくヒヤリハットのヒヤリではある。ハッとしてから回避したと思うまでのあの焦り、生きた心地のしなさは、恐怖なのか、緊張なのか。

それか、草むらに大きな動物が居るのが分かり、しかし突っつくことは危ないので出来ない。結果的に、鹿だったので助かった。でもこれが熊だったら一体どうなっていただろうか。

それに比べればお化け屋敷など結果の予想ができる。ある意味管理された恐怖の場なのだ。自然のように底なしの、死という恐怖と突き合わされる場とは違う。

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これを書いたのは、以下の記事を見てちょっと共感したから。

韓国遠征隊、前人未到の「サトピーク」世界初登頂 : Korea.net : The official website of the Republic of Korea https://japanese.korea.net/NewsFocus/People/view?articleId=293910

ー最も恐怖を感じた瞬間は。

一日の登山を終え、それぞれテントで休んでいた時のこと。漆黒の静寂を破るかのように、突然、巨大な氷河が崩落する音が響き渡った。言葉では表現できないほどの圧倒的な破壊音だった。暗闇のなか、無防備な状態でごう音を聞く恐怖は、実際に経験した者にしかわからないだろう。大自然の前で、人間がいかに無力な存在であるかを、骨の髄まで思い知らされた瞬間だった。

*1:ちなみに蓮華の大下りの一番下の鎖。当面忘れられない

子供が生まれるのは「おめでとう」なのだろうか

ストレスが生み出した駄文。吟味中

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社会のうちに生きざるを得ない人間として、「子供が生まれまして…」と聞けば、とりあえず「おめでとう」と返す。 それは別に、気持ちが籠っているとかどうとかの前に、相手が「子供が生まれた」と言ってきた場合、「おめでとう」と発語すべきことが強く要請されているシーンであることを理解しているからだ。 反射神経的、社交辞令的な発言であって、メタ的な動機の方が強い。

こう言っておけば相手は「いえいえ…」などと言いながら苦労話でもし始めるのが大半のケース。 とりあえずこの場面をやり過ごすには最適な返事であると言える。

なのでこう言っておきつつも、何が「おめでとう」なのだろうかと、相手の言うことを話半分に聞き流しながら考える自分がいる。

(当然、そこに至る当人の苦労などを良く知っていれば、よくその結果にたどり着きましたねという労いの気持ちが出るけれども)

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そもそも、子供が生まれることは必然的に喜ばしいわけではない。その繋がりに必然性はない。 (と思ったけど、生物として、子供を見ると喜んでしまうような条件付けが遺伝的に為されている…ということはなくはないかもしれない)

極論、どう思おうが人間の勝手である。 その選択肢が、(どう発言するかは置いておいて)少なくとも内面には用意されている。

それに、別に子供は勝手に生まれてくるわけではない。

そこには、性交渉という原因があり、そして子の生誕という結果がある。その原因は既に生じているのが分かるので(性交渉をした ⇐ 子が生まれた)、では結果たる子供の生誕は所詮確率的に発生しうる事象でしかない。 (最近は体外受精という可能性がある。が、例外的であるとしここでは考えない。なお、この記載は別に体外受精を否定するものではない。ただ単に議論が混線するなあ…と思って外すだけである)

つまり原因があって結果があるという当たり前のことである。当たり前なことをいちいち褒めるのだろうか? 例えば、月が満ち欠けするのは物理法則に従っているもので、いちいち満月を迎えて「おめでとう」と言うだろうか。(満月に別の意味をもたせれば、そういう人間がいることは十分考えられるか…)

「おめでとうも何も、貴方がたが原因を作ったのだから、その結果でしょう。今更何か言うことなのだろうか」という気持ちは強い。

それに、"できちゃった"ならともかく、意思があったはずである。めでたいも何も、相手は計画的なのである。 年齢等に依存するだろうが、「n0%の確率で出来るんだからそういうケースも当然あるよね」くらいの気にもなる。

しかし、不妊や流産により子供が生まれないことは十分ある。周りでも時々聞く話である。 避妊確率が低かった昔ならともかく、今の世の中においては、大抵の場合は生むべくしてこの子作りというものに挑むわけで、事前にそこには「子供を生みたい」という希望があることになる。 よって、「希望が叶って(子供が生まれて)よかったね」という意味で「おめでとう」、かもしれない。

実際、「おめでとう」と言って「実は本当に欲しかったわけではないんだけどな…」と内心思われる場合もあるのではないだろうか。 このようなギャップがあることを思えば、希望成就共に喜ぶ説は候補の一つと言える。

また、子を生むには、母親に多大な身体的負担がかかる。結局似たような話かもしれないが、「その苦労の甲斐があったね」という意味で「おめでとう」なのかもしれない。ただ、この場合は「お疲れ様」の方が適している気がするが。

別の動機として、褒めておけば、少なくとも社会通念上は、余程のことがない限り、相手はプラスの意味に捉えざるを得ない。 有無を言わさない。「肯定しているのだから、貴方は反論出来なくはないが、そのハードルは高いですよ」という圧力を与えることが出来る。 その場を切り抜けるためのメタ的な使い方、切り札としての「おめでとう」である。

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しかし、そこに子供の視点はない。

「おめでとう」と声を掛ける対象は誰であろうか。親か、子か。 親ならば前述の理由によりわかるが、子供に対して「おめでとう」というのは正直良く分からない。

もっとも、極論すれば、そもそも相手の感情などというものは推量することしか出来ないものなのであり、 別に相手が親であれ子であれ、こちらは

  • 「相手がそう言われたら嬉しいであろうことを言う」とか、
  • あるいは「相手との関係、あるいはその場の雰囲気などが不利にならない範囲で自分の好きなことを言う」(ただしそれは相手にプラスあるいは0のことを言うので、1つ目で包含できるかもしれない)か、
  • 「場を乱すことと自分の発言することによる利益を天秤に掛けたうえで後者が優れば発言する」

とかしかできず、もともと真に子供目線での発言などできようもない…かもしれない。 そして、これはオトナに対しても同じであるから、子供のときにのみ問題になるわけではない、かもしれない。

子供が生まれることを祈って子宮から出てくるわけでもないので(親の意志であって子の意志ではない…もっともこれは胎児に意志はあるか=人として認めてよいのかという問題につながるため(そこから、中絶≠殺人という扱いの正当性とか、小児に認められる権利を胎児にも認めるのか、とかと関連する)根が深そうな気がするけど)、別にこの子供がどう思っているのかというのは分かりようもない。

だから、前述の、「親の希望が成就したことを褒める」理論は親にしか通じず、子供に対して「おめでとう」と言う理由にはならない。

では、健やかに生まれてきておめでとう、なのだろうか。

これは私は言うのを躊躇う。なぜならば、それは、健やかでない場合はおめでたくないという、子の優劣を判断する価値判断が裏に見え隠れする気がするからだ。 理由が「健やかだから」かどうかが焦点なので、健やかでなければ「言わない」、健やかであるときのみ「おめでとう」というのでも、優劣を付けているのだから問題は変わらない。

特にこれが先天的疾患ともなればかなりセンシティブだろう。

しかし、健やかに生まれなくてもおめでとうと言うことにすると、今度は、健やかであろうが無かろうが生誕そのものに対する肯定的な評価を与えることになり、「子は生誕を希望しているのだろうか」という点に戻ってしまう。

もっとも、子の健康を願うのは当然の価値観だ、という向きもあるだろう。 個人的なことだが、最近健康を崩し、どうしても健康というものを願いたくなるものだと思った。このような経験を通じての発言かもしれない。 ただそれも発言者や親の価値観に由来するものに過ぎない。

他に思いつくものとしては、社会の一員として、生誕を歓迎するという態度のアピールとしての「おめでとう」である。

結局のところ、発言者が「生まれたほうがいい」と思っているからこそ、勝手に生誕を肯定的評価するのだ。

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それはそれとして、公共の場で「子供ができた」と発言することはどうして許されているのだろうか。

子供が出来るというのは、前にも書いたとおり、性交渉の存在が付いて回る。子供が出来るというのは、結局のところそれを仄めかす発言だ。

例えば飲食店において、いきなり「セックスをこの前した」と発言したら、周囲の人間はぎょっとするだろう。

赤裸々に語っているのか、そうではないのか。あるいは、主題としたいか、そうではないか(子供ができた発言の場合に、その原因たる性交渉について語ろうとする人は、いなくはないだろうが、全員でもないだろう)という違いはある。

極論すれば、人間の存在、それすなわち性交渉の暗示ということは出来る。 この場合、最早何を語ろうとも、ただ暗示の強さの違いでしかなく、我々は閾値の設定に難儀するだけの連続的な変化を扱っていることになる。

そうなれば、性交渉を主題として扱わない可能性が高いと考えられる「子供ができた」発言は、許容される、か。